2013/09/12

LGW

いつコピーしたかも思い出せないThe Chaucer Review誌掲載の論文を一本読みました。95年の論文で、チョーサーのLegend of Good Womenにおける女性像について書いたものです。

この論考においては、LGWにおいては善き女というのが常に男性との関係性において語られていると指摘されています。つまり、この善き女性たちは皆誰かの恋人や妻であり、その善さというのは結局、相手の男に忠実でした、というポイントに在るのです。

LGWに出てくる古典の女たちと、クリスティーヌ・ド・ピザンの『女の都』に描かれている古典の女たちの中から共通しているキャラクターを比較すると、例えばヒュプシピュレーはLGWにおいてはイアソン(黄金の羊毛の)に裏切られた哀れな女であるのに対し、『女の都』では勇気ある女として描写されている。etc.

結局『女の都』においては、男女は確かに身体が違い、その結果力も違うけれども、逆に精神や魂は同じものから出来ているため、男も女も有徳の人物になれる可能性を持っているし、女の善さというのは何も貞節さだけではない、というスタンスで、一方LGWにおいては男に対する貞節、女らしさが男らしさに従属することが女の評価を形作っている、というのが論者の主張です。
本論によれば、別にクリスティーヌ・ド・ピザンは「男女は平等です!」等と主張していることはなく、ただ男女どちらの魂にも善の可能性があるということ、女性の美徳が貞節に限定されていないということが読み取れます。


これはこれで結構納得がいく論文でした。そういえば中世の女性についての授業で、女は乙女か妻か未亡人かしかなく、常にこのポイントで定義されるということを習いました。よく考えれば男性でもこのカテゴリに分類できますが(そして男女共に、現代であっても分類可能ではありますが)当時は女性の方が男性との関係性で語られることが多かったのでしょう。男性は誰々の息子、という言われ方は結構ありそうで、実際マビノギオンでも「○×の息子○×」とキャラクターが言及されますが、(指輪物語等もこの辺りの影響でしょうか?○×の息子○×、という言い方は多用されます)誰々の夫という前置きはあまりないのではないでしょうか。今気付きましたがロマンス(物語文学)においても主人公の妻は出てきても名前すらないことも多いです。「○×の夫○×」という言い方は見ないように思われますが、「○×の奥方」という言い方は普通です。やはり上下があるのでしょう。「グウィネヴィアの夫アーサー」と言ったらアーサー王らしさまでundermineされてしまいそうです。

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