2011/06/12

書簡の解釈

中世ヨーロッパで例えば修道士などが交わした書簡について、その愛情溢れる文面をどのように解釈するかは意見の分かれるところです。
とはいえ、額面通り受け取るにしてもJohn Boswellが論じているほど字義通りの解釈はさすがにやり過ぎではないかと思います。Boswellの論は非常にはっきりとした立場を取っており、「このような文面だからゲイだ」のようにシンプルに主張しているため、当然反論も多く生み出しており、よく言及されている(=学術的に有名)のを見かけます。

現代であれば手紙は、企業の担当者同士のオフィシャルなやり取り等でなければ自由に書くことができ、confidentialにもできます。しかしその場合ですら、例えば「Dear Taro」と書いたからといって本当にタロウさんが親愛なる存在であるとは限りません。
ましてや中世期の書簡となれば、送る際にも到着して読まれる際にも、宛てた相手の人のみに読まれるということは想定していないといってよく、そもそも口述筆記で書いている場合さえあります。さらに、ars dictaminisの伝統も無視できません。必ずしも書簡に限らず、そもそも文章作成というもの自体、 J. J. Murphyが論文 ’The Arts of Poetry and Prose’ (The Cambridge History of Literary Criticism 第2巻所収)で言うところの「規定された形の中での創造」であったのではないかと。

少なくともars dictaminisについては、マニュアルのような著述が約300も在り、やはり様式や、敷衍法、短縮法など修辞学的な技巧といった既存の形式が存在したわけです。

このような様式的な、且つ決して親展ではないwritingの中で綴られる言葉の数々が、果たしてどれだけ個人的心情の率直な吐露であるか・・・

Julian Haseldineは、会ったこともない人にさえ親愛なる文面で綴られている実例を挙げ、「personalでpassionateであるがprivateではない」と論じています。このあたりの解釈はBrian Patrick McGuireの著書、Friendship and Communityではまた少々異なってくるようです。Boswellほどではないにしても。

McGuireの著書はルーテル学院、東大にしか所蔵がないため、取り寄せて読まねばと何年も思っているうちに、ふとamazon.co.jpで見ると昨秋pbkが出版されたらしく3000円台で売られていたので、即購入しました(そして即配達されてきました)。McGuireの論考を読むといいよ、とBob (Dr Robert Mills, senior lecturer at English Dept., KCL) に言われていたので、これはじっくり調べたいと思います。

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